早歩きと菩薩のこころ

 

7月下旬にジュニアYBAの宗教教育の一環として日本旅行に行ってきました。今回は6名の高校生が参加し、京都、奈良、広島、富山、東京を訪れました。1日に2~3か所以上のお寺や博物館、観光地を巡ったため、毎日2万歩以上を歩きました。訪問先が多いため歩く速度は自然と速くなり、しかも毎日90度以上で湿度も高かったので、参加者たちは少し疲れている様子もありました。しかし「これは単なる観光旅行ではなく、短期間で集中的に知識や体験を得るブートキャンプのような旅だ」と説明してあったので、誰も不平を言うことなく楽しんで歩いていたように思えます。最近の研究では速く歩くことで頭が良くなり、長生きできるとも言われていますから、高校生たちは私と一緒に歩いたことで、少し賢くなり寿命も延びたかもしれません。

私が速く歩くのには理由があります。一つは、目的地に早く着いて道順が正しいか、危険がないかを確認するためです。また、日本では観光地やレストランで行列になることが多いため、早めに到着して並んでおく必要があるからです。歩いているときは常に後ろを振り返り、皆がついてきているか確認していますが、ときどき後ろの人を見失うことがあります。その際には、再び戻って全員がいるかを確認します。そのため、他の人よりも私の歩数が1,000歩ほど多いこともよくあります。目的地に早く着いても、来た道を戻ることが多いのです。

以前、サンマテオ仏教会のヘンリー・アダムス先生が洗心寺のセミナーで菩薩についてお話しくださった際に、私の歩き方を例に挙げて説明されました。「古本先生は速く歩かれるけれど、それは目的地に先に着いて道が正しいかを確かめるためだそうです。もし後ろの人が遅れていたら、先生は迎えに来てくれるでしょう」と言われ、それを菩薩のあり方にたとえてくださいました。すなわち、菩薩は他者のためにまず自らが悟りを得る準備を整え、その方法を人々に伝え、導いていく存在である、ということです。

もっとも、浄土真宗のマナーとして「あなたは菩薩のようだ」と言われたときには、「私は他の人の幸せを第一に考える“others first”の菩薩の精神からは程遠く、“me first”の凡夫です」と謙遜して答えるようになっています。「その通りです。私こそ菩薩です」と言う人はほとんどいません。

親鸞聖人は『浄土和讃』の中で、自らに念仏を伝えてくださった法然上人を勢至菩薩の化身として尊敬されていた、と思われるご文を書かれています。けれども、法然上人ご自身は、自分のことを凡夫と自覚され、「愚者になりて往生す(自分の愚かさに気づいてお浄土に生まれる)」とも言われています。親鸞聖人も多くの方から尊敬され、菩薩さまだと思われたこともあるかもしれませんが、ご自身で「愚禿」と名のり、自分は煩悩だらけの愚かな凡夫だと反省されていました。

とはいえ、アダムス先生の菩薩のたとえはわかりやすいものでした。菩薩とは、悟りを目指す人のことで、サンスクリット語の「ボディサットバ」に由来します。「ボディ」は悟り、「サットバ」は人・衆生を意味します。菩薩は他人の悲しみを自分の悲しみとし、寄り添って癒やす存在です。それを慈悲と呼びます。また智慧によって、他者が悟りを得られるように方法を伝え、助けるのです。もし私が菩薩のような人であれば、遅れている人を迎えに行っておんぶして目的地まで連れていくでしょう。しかし私は自分の身が大切な凡夫ですから、「あっちのプラットホームですよ」「電車に遅れないように急いでください」と伝えるだけです。それでも目的地や行き方を示す、という点においては、菩薩的な役割を果たしているのかもしれません。

この例のように、菩薩そのものではなくても、菩薩的なはたらきを通して念仏の教えを伝えてくださる方は多くいらっしゃいます。念仏の教えを教えてくださる先生方は、学びを深めたうえで、それを他の人の参考となるよう伝えてくださいます。

また「念仏をとなえる祖母の姿を見て、自分も念仏をするようになった」という方も少なくありません。「おばあさんは菩薩だ」と言えば「いやいや、私は凡夫です」と謙遜されるでしょうが、その姿勢や導きが菩薩的な役割を果たしているのです。他人を導いているとかいうような思いはなく、ただ自分がするべきことをしていたり、ただ知っていることをシェアしている、というところに自然と菩薩的なはたらきが出てくるのです。

今回の旅では、歩きながらそのようなことを考えることができたので、私にとっても念仏の教えの理解を深めることのできた、ブートキャンプのような旅行になりました