「キャリーオン南無阿弥陀仏」、石川次郎さんの話 

 

親鸞聖人は『教行信証』の信巻で、信心を「長生不死の神方」と表現されています。信心をいただくと、生死をこえて、阿弥陀如来と同じ無量寿にさせていただくから、信心を「不死を得る不可思議の方法」と言われるのです。死んでも死なない身になるということで、この世での死後に、お浄土に生まれて、仏に成ることができる、という浄土真宗の教えをお示しくださっています。

 約100年前、アリゾナの地で、「キャリーオン、南無阿弥陀仏」という言葉を残して亡くなられた石川次郎さんがおられます。「キャリーオン」とは「困難にもめげずに継続する」とか「続けていく」という意味です。このお話は、アリゾナ仏教会初代開教使の関法善先生が、「メサの校歌」という本で紹介されました。

 石川次郎さんは、庫太郎、ハツノ夫妻の長男として生まれました。父親、庫太郎氏は広島市の出身で1911年に単身渡米、アリゾナ州メサ市でオレンジ栽培をされました。数年後、ハツノ夫人を呼び寄せ、夫婦で力を合わせた結果、事業も拡大、繁昌し、次郎さんと4名の娘が生まれました。

メサ高校に通う次郎さんは、人物は優秀、学業は抜群の出来、スポーツもでき、たいへんポピュラーな生徒だったそうです。そんなすばらしい青年に、突如、悲しい事件が起こります。

1932年9月21日の夜、フットボール部の試合を数日後に控えていた次郎さんは、自宅でくつろいでいました。母親のハツノさんは故郷の広島に帰省中で、四人の妹たちは寝床についており、お仏壇の安置されているリヴィングでは父、庫太郎さんと友人が深刻な顔をしてなにやら相談事をしています。

そんな折、突然、裏庭の方から野良犬たちの吠える声が聞こえてきました。庫太郎さんは、「次郎、犬をどっかへ追い払ってくれえや。」とたのみます。「オーライ。」次郎さんは裏庭へ行き、おもむろに戸口に立てかけてあったライフルを手に取りました。犬を撃とうとするわけではありませんし、弾丸が込められていたことも思いも知りません。ライフルをさかさにして、銃身を持ち、柄の方で犬たちのケンカを仲裁するつもりでした。今、銃口は自分の方に向いています。

「ほれ、どっか行きんさい。お父さんたちの邪魔になるけえ。コラ!」と言い、ライフルの柄を地面に叩きつけたその時、「ズドン。」銃声が轟きます。弾丸は次郎さんの胸を貫きました。

数分後、次郎さんはリビングで庫太郎氏、友人、四人の妹たちにかこまれています。胸から血を流し、横たわっている次郎さんはとても苦しそうです。医者が来るまでの時間、皆は泣きながら次郎さんを励まします。次郎さんがフットボール部の主力選手だという事を考えると、この致命傷から回復するんじゃないか、と望みをかけます。けれども、客観的に見ると、次郎さんはとても助かりそうにはありません。

大事な一人息子の死を直感した庫太郎氏は、もう「死ぬな、しっかりせえ、生きろ。」とは言いません。代わりに「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」とお念仏をとなえます。代々続く浄土真宗の信者として、死んでも終わりじゃない、ということをよく聴聞しておられたのでしょう。

「次郎、心配せんでもええ。お前は、たった今、もうすぐあみださまの、結構な所に往くんじゃから。次郎、わかったか。ダディーもマミーもみんな後から往くけえ、心配するなよ。いいか、次郎、次郎!なむあみだぶつ、次郎、待っとけよ。」

 父親の言葉を聞いた次郎さんは、「そうです、ダディー。キャリーオンです。キャリーオンなむあみだぶつ。」「うれしいのー、次郎、また会おうな。」「はい!」次郎さんは、何度も何度も「キャリーオン」を言いつづけて、ついに彼岸へ旅立たれたといいます。十七年と三ヶ月の短い生涯でした。

この出来事を書かれた関先生は、

「キャリーオン、なむあみだぶつ」とは念仏の訳語である。死ぬのではなく、永劫につながる生命の躍動、即ち「無量寿如来」の意を象徴した言葉。「我行精進忍終不悔」の精神こそ、実にキャリーオンであり、活きた念仏の表現なのである。

と言われます。

石川次郎さんが残された「キャリーオン」は、メサ高校の校歌の一節になったそうです。約20年前、私がメサ高校を訪れたとき、グラウンドに立つスコアボードの上方に、大きく「キャリーオン」と書かれてありました。夕暮れ時のグラウンドで「キャリーオン、なむあみだぶつ!」と一人で何度かとなえた後に、讃佛偈を読誦したことがおもいだされます。

 

南無阿弥陀仏