仏と木と私

古本龍太

 

何年か前に、ちょっと変わった法要をお勤めしました。木のメモリアルサービスです。

朝、お寺のオフィスにいると、電話がなりました。女性の声で、何かいいにくそうに「変に思われるかもしれないのですが、木のブレッシングのようなことをされますか?」と問われました。

「ブレッシング」というのは、神からの加護を求める祈りとか、祝福の言葉という意味の言葉です。

日本の風習でいえば、おはらいのようなものです。おはらいは、何か悪いものをはらう、という意味合いですが、ブレッシングの場合は、よいことがありますようにと、祝福、または招福するようなイメージです。

浄土真宗では「福も禍もすべて受け止めて、反省と感謝に転ずる」という教えなので、福だけを求めて、悪いことをさける、というように阿弥陀さまにお願いをする意味のブレッシングはしません。

たまに家を購入した時に、「ブレッシングセレモニーをしてください」と頼まれることがありますが、浄土真宗では「 良いことが起こっても、悪いことが起こっても家に感謝をして住まわせていただく」という意味でブレッシングセレモニーをすることがあります。「住める家があって幸せだ」と感謝できることが、祝福された人生だと言えます。

電話の女性がいわれている「木のブレッシング」は木によいことがありますように、よく育ってくれますように、とお願いすることではなさそうでした。彼女が言われるには、「自分の家の裏庭に大きな木があるのですが、木が大きくなりすぎたので、切らないといけなくなったのです。切る前に何か感謝をささげるセレモニーはできませんか?」ということでした。

それはブレッシングというよりも、言うなれば、人が亡くなられる前や後、または亡くなられている最中に行う、臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)または枕経のようなものです。ということで、その日の午後、その女性の家に行くことにしました。

「ピンポン」とドアベルを押すと、中から出てきたのは40代の白人の女性でした。挨拶をすますと、裏庭に案内してくれました。「この大きな木は自分が5歳のときからある木で、人生をともに歩んできたから切る前に何か感謝をあらわすようなことがしたいのです。」と言われました。家の三倍くらいの高さのある大きな木の前にお焼香台を置いて、お経を唱え、お焼香をしてもらいました。女性は木にお花を捧げ、手をあてて、ありがとうと言われていました。

私はその姿を見て、親鸞聖人がお書きになった、「唯信鈔文意」の一節を思い出しました。

「この如来、微塵世界(みじんせかい)にみちみちたまえり、すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり。草木国土ことごとく、みな往生すと説けり。」

親鸞聖人には、仏さまがこの世の中にみちみちておられ、人間だけでなく草や木など、生きとし生けるものの心に仏さまが入ってこられている、という見方をされています。

私たちが木に共感をするのは、私たちの心に入ってくださっている仏と木に入ってくださっている仏とのつながりを感じるからなのかもしれません。

生きとし生けるものすべてに仏さまがおられるという見方をすると森林や生き物の乱獲がおさえられ、地球の環境もよくなるのではないかと思いました。

南無阿弥陀仏