正信偈をとなえられるようにしましょう。

古本竜太

 

京都の本願寺では、毎朝のお勤めで「正信偈」をとなえています。何十年か前までは、浄土真宗の念仏者の家では、お仏壇の前で正信偈を唱えて一日が始まりました。あるメンバーの方は、幼い頃、正信偈をとなえなければ朝食を食べられなかったと言われてました。

正信偈は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が主著「教行信証」の「行」の巻の終わりの方に書かれている偈文です。

「正信念仏偈」がオリジナルのタイトルで、「正信」とは正しい信心という意味です。英語では true entrusting, やtrue faith, と訳されます。学者や僧侶が100年以上前から信心の訳語を議論していますが、いまだに議論が続いています。だから、今は訳さずにShinjin と言われる方も多いです。

正しい信心と念仏のことを説く浄土真宗の教えの要約を漢文の詩の形式を用いて120句で書かれたのが正信偈です。最初の二行で「南無阿弥陀仏」の意味を示し、次に「大経」の内容に基づいて阿弥陀仏を讃え、そして七高僧の教えを簡潔に示されています。

最初はあまり正信偈に書かれていることの意味がわかりませんが、となえるのに慣れてくると、教えもわかってくるようになっています。

私が初めて正信偈をとなえるきっかけとなったのは、あるお寺の法要の時でした。その時初めて法要にお参りしたのですが、若い人は私一人で、ほとんどの参拝者は年配の方々でした。正信偈が始まると、みなが大きな声でとなえ、中には正信偈を暗記されている方もおられました。私は初めてでしたし、あまり意味の分からないものをとなえるが恥ずかしいこともあり、他の人がとなえるのをただ聞いていました。その音は不思議なものでしたが、魅力的でした。その時の法話の内容は覚えていませんが、正信偈のお勤めに衝撃を受けたことは覚えています。

その後、正信偈をとなえているうちに、だんだんリズムやメロディーに慣れてきました。そうなってくると、いくつかの言葉やフレーズにも慣れ、教えの理解を深めることができました。これは仏教の教えの学び方で、最初はお経や偈文の唱え方を覚えるのですが、その時は言葉の意味はわからなくてもいいのです。不思議なことにとなえているうちに言葉の意味が分かってくるようになっているのです。

「正信偈」の中に、「悪人」とか「一生造悪」という言葉が出てきます。最初、なぜこのような否定的な言葉が聖典に書かれているのか、私には分かりませんでした。

「悪人とは誰のことだろうか?」と思ってましたが、その後、教えを聞いていくうちに、「悪人」というのは、私自身のことだと教わりました。浄土真宗の悪とは、自己中心性やそこからでる煩悩のことです。自己中心は貪欲、怒り、憎しみ、嫉妬、妬みを生み、自分や他人を苦しめるのです。聖人は、それだからこそ、阿弥陀如来は、私たちが自己へのとらわれから完全に解放され、涅槃という完全な平穏を得ることができる浄土に生まれるための誓いを建てられたとお示しくださっています。正信偈をとなえることに慣れてくると、言葉の意味や親鸞聖人の教えがわかるようになってくるのです。

今年は「正信偈」やその他のお経や偈文を唱える練習をする予定ですので、ぜひ日曜礼拝やクラスにお参りして「正信偈」をとなえてみましょう。

南無阿弥陀