ウサギのダーナ

 

2023年ももう5か月目となりました。今年はうさぎ年なので、年初に有名な仏教のうさぎのダーナ(布施)の話を紹介しようと思っていましたが、なかなかその機会がありませんでした。4月はイースターがあり、うさぎがマスコットキャラクターのようになっているのですが、あまり私たちの仏教に関連がないですし、4月も終わってしまったので、お話する機会を得られませんでした。けれども最近知ったのですが、アメリカでは月の初めの日にグッドラックを得る言葉として「ラビット」と言う習慣があるそうです。アメリカ人が 「rabbit 」と言っているのを聞いたことがないのですが、何月でもうさぎに関連する行事があるということなので、今月号でうさぎのダーナの話を紹介しましょう。

この話は、「ジャータカ物語」に出てきます。ジャータカ物語は、仏教の教えを説いた物語や寓話を集めたものです。これらの物語の主人公は、前世のお釈迦さまであることが多く、「かつてお釈迦さまが猿だった時」とか「お釈迦さまが鹿だった時」のお話として語られています。

ジャータカ物語にはダーナのお話が多いです。ダーナとは布施することで、自分を忘れて人に施すことです。それは、自分へ執着することからできる自分と他人との間の壁を越えて、自分が他人であり他人が自分である、という真理の見方があるということに目覚めるための大切な修行とされています。

この物語は、「かつてお釈迦さまがウサギだった 時」の出来事です。そのウサギは山の中でクマとキツネと一緒に仲良く暮らしていました。ある冬の日、山に一人の僧侶がやってきました。僧侶は真理とは何かを求めて旅をしており、三匹の暮らしている場所の近くで一泊することにしました。その僧侶は冬の山では食べ物がなかなか手に入らないので、おなかをすかせている様子でした。

そこでウサギとクマとキツネは僧侶に食事をダーナしようとしました。クマは川に行って魚を捕りました。キツネは冬の森で木の実を手に入れることができました。ウサギは僧侶のために一生懸命に食べ物を探したのですが、どうしても見つけることができませんでした。 そこで、ウサギは火をおこし、僧侶に「私はあなたのために何もみつけることができませんでしたので、どうぞ私の肉を食べてください。」と言い、僧侶に自分の肉を食べてもらえるよう、火の中に入っていきました。僧侶は「これこそが自他を超えた真理にもとづいた行為なのだ」とウサギのダーナに深く感謝し敬った、というお話です。

この話は、ダーナという理想的な施し方を教えてくれています。ダーナとは、見返りを求めず、他人に物を与えたり、親切な行いをすることです。この物語では、お釈迦さまの前世であるウサギが、僧侶のために自分の命を犠牲にしました。自分が死んでしまったら、僧侶から見返りをもらえるかどうかはわかりません。ウサギは、ただ僧侶が飢えないように、との思いで、自分の利益を考えずに命を捧げたのです。こういう見返りを求めないダーナが真のダーナとされています。私たちは、他人に与えることで何かの利益を得ようと考えがちですが、仏教では、他人に利益を与えることこそが真の利益であると説いています。

大乗仏教徒にとってダーナは自他を超えた境地を知り、悟りを開くための大切な修行とされています。しかし、私たち浄土真宗の伝統では、ダーナを実践することは悟りを開くための方法ではありません。私たちが悟りを開く方法は、阿弥陀仏におまかせし「南無阿弥陀仏」と称えることです。私たちはダーナを完璧にこなすことはできないので、自分の努力で悟りを開くことはできないのです。そのため、 阿弥陀如来が私たちが浄土に生まれ、悟りを得ることができるよう、本願を建てられました。親鸞聖人は、この本願は、特に修行をやり遂げることができない人に向けられたものであるといただいておられます。

私たちが悟りを開くためには、ダーナが必要なわけではありませんが、なぜかダーナをしたくなるようになっています。親鸞聖人は和讃にこう書かれています、

弥陀の尊号となえつつ

信楽まことにうるひとは

憶念の信つねにして

仏恩報ずるおもひあり

と、阿弥陀如来におまかせし、ご信心をいただいた人は、阿弥陀如来に感謝で応えたいと思うものだ、と言われます。親鸞聖人は、念仏を称えることが阿弥陀如来への感謝の表現であるとお示しくださっているので、念仏を称えるだけで感謝になるのですが、ご信心をいただいた人は、念仏の教えを他の人に伝えたいと思ってしまうのです。それで、念仏の教えを伝えるために、教えを学ぶことができるお寺にダーナをしたくなります。また、テリヤキチキンセールやお盆などの行事も手伝いたくなります。私たちのダーナは完全ではないですが、ウサギのダーナのお話を思い出し、できるだけダーナをするようにしていきましょう。