しらん聖⼈

古本龍太

 

タイトルは「ん」を書き忘れたわけではありません。「しんらん」ではなくて、「しらん」と書いています。これは⽵本アート先⽣が親鸞聖⼈についてお話しされたときに⾔われてたことで、漢字をあてると、知らん聖⼈です

20 年ほど前、私がアリゾナ仏教会の駐在開教使だった時、洗⼼のメンバーの⽅と南部教区の他のお寺の⽅々がお盆に来てくださったことがありました。お盆の少し前に浄⼟真宗や親鸞聖⼈に親しみをもってもらう⽬的で、親鸞聖⼈のご絵像をプリントした親鸞聖⼈Tシ   ャツを作りました。お盆で多くの⽅が来てくださったら何枚かは売れるだろうと思ってたのですが、⼀枚も売れませんでした。それをアート先⽣が気づかれて、t  シャツのことを皆に宣伝してくれたのです。その時、「みんな親鸞聖⼈のことを知らないから、tシャツを買  わないんだね。私たちは浄⼟真宗の⾨徒として、親鸞聖⼈のことを知らん聖⼈にしてはいけ  ませんよ。」とジョーク交じりに⾔ってくださったら、すぐにTシャツが完売したのです。

⽵本先⽣のおかげで親鸞聖⼈のことを皆に知っていただけるご縁もでき、⾚字にもならな   かったので、ありがたかったです。

⽵本先⽣が⾔われた知らん聖⼈は、「私たちが知らない聖⼈」、という意味ですが、「知らんと⾔われた聖⼈」、という意味もあるように思えます。

親鸞聖⼈は、ご和讃に、

是⾮(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり ⼩慈⼩悲もなけれども名利(みょうり)に⼈師(にんし)をこのむなり」

と、⾃分は何が良いことで何が悪い事か、何が正しくて何が間違っているか、ということはわからない、知らない、と⾔われたのです。親鸞聖⼈ 20 年ものあいだ、⽐叡⼭で厳しい仏道修⾏にはげみ、戒律を守り、さまざまな経典や経典の解説書を読んで勉学にいそしまれた    といわれています。その結果、聖⼈が⾏きつかれた境地は、私は⾃分の⼒では仏になることはできず、また仏道を歩むのに、⼀体何が正しくて、何が間違えているのか、わからない、 知らない、というものでした。そして、「親鸞においては、ただ念仏して阿弥陀仏に助けられる、という師の法然上⼈が⾔われたことを信ずるほかない。(歎異抄 2 条)」と⾔われ、深い内省から、愚禿(ぐとく)親鸞、と愚かでかっこうだけの僧侶だと、名乗られたのです。

愚かだとは⾔われますが、聖⼈は仏教の教えに詳しく、教えを通して真実とそうでないものを探求されており、博学で知識のある僧侶でした。けれども、勉強すればするほど、⾃分

が無知だということを知らされ、仏とは程遠い存在であることが⾒えてきたのです。ものご  とは、知れば知るほど、知らないことがでてきます。⾃分は全てを知っている、というのは  本当の賢者ではない、と⾔われますが、親鸞聖⼈はまさに、そのことを悟られ、⾃分は愚か  だと反省されたのです。

親鸞聖⼈の師である法然上⼈は浄⼟に⽣まれるには、愚か者になることだと、⾔われます。法然上⼈はそのことを話されるときは、笑顔で語っておられたといいます。親鸞聖⼈も法然上⼈からそのお⾔葉をいただいて、笑顔で「私は愚かだな、けれどもその愚かなものをこそ救ってくださる阿弥陀様がおられることがありがたい、」と念仏されたことでしょう。

「愚かだ」、「知らない」、と⾔うのは難しいことではありますが、浄⼟真宗では、それが事  実だといいます。それがいいか悪いかはわからないのですが、⾃分には、阿弥陀如来におま  せする以外に仏になる道はない、といただいて、愚かなまま往⽣する、ということです。

知らん聖⼈にはそのような意味もあるように思えます。

南無阿弥陀仏