笑い門 (続き)

 

先月号のお話の続きです。先月号は洗心の門の名前を「笑い門」にしよう、というお話でしたが、その理由の一つが、昨年11月にお寺に笑っている邪鬼の顔の彫刻が来たことです。邪鬼とは仏教でいう悪霊、鬼、悪魔のことですが、その彫刻は魅力的で、見ているとついつい触ってみたり、なでたりしたくなります。

邪鬼の顔は岡山ケイショウさん作のものです。30年前、洗心寺の40周年記念事業としてお寺の門を建立した後、マス先生が門の装飾として、邪鬼の木像を彫ってもらうよう依頼したのです。ケイショウさんは芸術家で、緊那羅に舞楽用の面も彫っておられます。おそらくそれは、舞楽の1200年の歴史で、メイドインUSAの初めてのお面だと思います。ケイショウさんは数年前に亡くなられ、 最近、ご家族が邪鬼の顔の彫刻をお寺に持ってこられました。その邪鬼の顔は標準的な大きさのバンカーズボックスより一回りほど大きいので、結構大きいです。

マス先生は小さめの笑っている邪鬼の全体像を依頼したのですが、なぜか邪鬼の笑った顔の彫刻になったようです。もしかすると最初はためしに顔を作り、後で顔と胴体のある小さい邪鬼像を彫ろうと思われていたのかもしれません。マス先生によると、ケイショウさんが「邪鬼の顔を彫り続けたくない」と言っていたそうです。理由は、彫っているうちに邪鬼の顔がケイショウさんの顔に似てきたからだそうです。

仏教では、邪鬼は妄念、悪、疑心、仏法をそしることの象徴とされます。これらは涅槃に至り、悟りを開くことを妨げるので、そういった望ましくない心や思考を制御する必要があります。奈良・東大寺の四天王像に踏みつけられている邪鬼像はそのことを象徴的に表している例です。

けれども、邪鬼像が寺院や仏法の守護神となっている例もあります。そういった像はお寺の建造物の実用的な装飾品として建物の梁の下や土台に置かれています。私たちの本山である京都の西本願寺でも、そのような邪鬼像を見ることができます。御影堂の前に雨水を受ける石の桶があり、その桶を4体の小さな邪鬼像が江戸時代から約400年も支えています。

洗心寺の門に口をあけて笑っている邪鬼の顔がとりつけられると、門から入ってくる人たちは邪鬼に笑われていることになります。浄土真宗では、私たちが煩悩にまみれた凡夫だから邪鬼に笑われている、笑い者(わらいもん)だと、と味わうことができるでしょう。

一般に仏教でいう凡夫、または愚かな者、とは貪欲や怒りなど自己への執着からくる煩悩(ぼんのう)を持つ人のことを指します。ほとんどの人は我執があり、煩悩がありますから、門に入る人は邪鬼に笑われる、ということです。

親鸞聖人は『一念多念文意』の中で、「「凡夫」 というのは、 わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、 欲望も多く、 怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、 まさに命が終ろうとするそのときまで、 止まることもなく、 消えることもなく、 絶えることもないと、 水火二河の譬えに示されている通りである。 (現代語訳)」と言われ、また、「「凡夫」 とは、 すなわちわたしどものことである。 わたしども凡夫は本願のはたらきを信じることを根本としなさいというのである。 (現代語訳)」と書かれています。

邪鬼の笑い顔は、私が凡夫で、笑いもん、であることを思い出させてくれますし、私たちが凡夫であるからこそ、阿弥陀仏が私たちがお浄土に生まれ、涅槃に至るための誓いを建ててくださったのだと、知らせ、感謝の念仏をとなえるよう促してくれます。自分の愚かさを知り、反省することができれば、それは仏さまの智慧の目をいただくということです。そして、自分の愚かさを邪鬼とともに笑い飛ばすことができれば、それはなお素晴らしいことです。

ですから、洗心の門「笑い門」は、二つの意味を持っています。ひとつは、幸せをもたらす「笑門」と、もうひとつは、自分の愚かさを笑われる人という意味の「笑い者(もん)」です。この笑門に入って洗心寺にお参りされる人は幸せになり、涅槃に至ることができる、ということです。

今、笑い門は塗り替えと補強が必要ですし、邪鬼の顔の彫刻をとりつける計画を立てています。これは2026年にむかえる、75周年記念事業の一つとなっています。このプロジェクトにご賛同いただける方は、お寺へのご寄付をお願いいたします。

南無阿弥陀仏