ジャストダンス、ジャスト念仏
今年は7月6日(土)にお盆おどりを行います。 昨年は約300名の方が踊りにこられましたが、今年は南カリフォルニアのお寺でこの日にお盆おどりを行うのは洗心だけなので、昨年より多くの方が来られるかもしれません。ところで日本以外で一番大きな規模のお盆踊りが行われている所はどこかご存知でしょうか? 日本以外で一番参加者が多いお盆は、意外にもマレーシアのクアラルンプールで、昨年は約5万人が集まったそうです。マレーシアの多くの人々はイスラム教徒で、 ヒジャブをかぶってお盆踊りを楽しんでおられる女性もおられます。
仏教とイスラム教にはいろいろな共通点がありますが、そのひとつが踊りです。仏教もイスラム教も宗教的な踊りがあります。
イスラム神秘主義には、スーフィーの旋舞と呼ばれる宗教舞踊があることが知られています。その踊りをする目的は、エゴや個人的な欲望を捨て、アッラーとつながるためだと言われています。
盆踊りは、もともとは踊り念仏という宗教舞踊でした。念仏を唱えながら踊る一つの目的は、深い瞑想の境地に入り、エゴのはたらきを弱めることです。後に、念仏はとなえずに、それぞれの土地の民謡に合わせて踊るようになり、現在のお盆踊りになっていきました。
洗心では、お盆はコミュニティの楽しいイベントとして親しまれていますが、お盆おどりは宗教的な活動であるともしています。
マス先生は1994年7月の『プラジュナ』にお盆についてのメッセージを書いておられます。
「盆踊りでは 、ただ踊る、人生では 、ただ生きる 。」や「踊りの見た目は二の次で、大事なのは、ただ踊ること。南無阿弥陀仏の語源を知ることは二の次で、まずは南無阿弥陀仏ととなえることが大事。」
と、「ただ踊る」ということと、「ただ念仏」をすることの共通性を示されます。また、上手に踊ってやろうとか、念仏をとなえるのは恥ずかしい、というようなエゴを反省することがお盆踊りの目的の一つであると言われます。
浄土真宗ではよく 「ただ念仏 」または「ただ信心」が大事だと言います。ただ念仏をとなえるということは、ただ阿弥陀さまの本願におまかせしている姿であり、それは私たちが阿弥陀さまに、ただ受け入れられているということです。
親鸞聖人は『歎異抄』第一条で、次のように述べておられます:
「阿弥陀仏の本願は老いも若きも善人も悪人もわけへだてなさいません。ただ、その本願を聞きひらく信心がかなめであると心得なければなりません。(現代語訳)」
親鸞聖人は涅槃に至るために必要なことは、阿弥陀さまに「ただおまかせすること 」であると説かれました。ただおまかせすることで、善悪を超えた涅槃界であるお浄土に生まれることができる、とお示しくださっています。
ルーミー(1207-1273)はイスラム神秘主義の詩人であり、スーフィズムの重要人物です。彼の有名な言葉のひとつに、「善悪の概念を超えた領域が存在する。私はそこであなたに会う。」という意味のものがあります。私はイスラム教の教えには詳しくありませんが、スーフィズムの踊りでも「ただ踊る」、「ジャストダンス」で善悪を超えた領域とつながることができる、と言われてるのではないかと思います。13世紀の同時代にトルコ地方におられたルーミー師と、日本におられた親鸞聖人が述べたことが類似しているのは面白いですね。宇宙の真理を知るには、「ただ、ジャスト」ということが鍵なのかもしれません。「ジャストダンス」「ジャスト念仏」をしてみましょう。
南無阿弥陀仏