阿弥陀仏と春

今年は洗心のコートヤードの桜が綺麗に咲きました。数年前は暖冬で2月の初旬に咲いたこともありましたが、今年は3月の初旬に花が咲き始め、お彼岸の少し前くらいに満開となりました。桜の花を見ると、春を感じ、思わず「春が来た 春が来た どこに来た。山に来た。里に来た。野にも来た。」そして「お寺にも来た」と歌ってしまいます。

この歌は、1910年の尋常小学校の音楽の教科書からずっと掲載されている歌だそうです。ですからこのメッセージを読んでいる方は一度はこの歌を歌ったことがあるでしょう。

けれども、「春が来た」と歌い、実際に春という季節はやってきますが、いったい春というのは何なのでしょうか?春が来ると、暖かくなり、桜が咲き、蝶やハチが花から花へ飛ぶのを見るようになります。

けれども、 春そのものを見たことのある人はいません。春というのはあるのだけれども、色や形がないのです。春とは桜を咲かせ、虫たちの活動を活発にさせるはたらきのことをいいます。春を見た人はいませんが、実際にそのはたらきを気候や桜や蝶にみて感じる事ができます。

阿弥陀仏も私を救い目覚めさせるはたらきで、春と同様、色もなく形もありません。「法身(ほっしん)は色もなく形もありません。ですから思いはかる事もできず、言葉で言い表す事もできません。(唯信鈔文意)」と親鸞聖人は言われます。

法身というのは、阿弥陀仏の姿の一つで、お仏壇の中に安置する阿弥陀さまの絵や木像の姿とは違う姿ではありますが、本質は同じです。水が氷やお湯になるようなものだと思ってください。

でも、色や形がなかったら目に見えないのにどうして親鸞聖人は阿弥陀仏がおられるとわかったのですか?と問いたくなります。

それは、春と同様、親鸞聖人も阿弥陀仏のはたらきを受け、お慈悲の暖かさを感じられたからです。 そのはたらきは私たちの心の闇を照らして、私たちが愚かでたいしたことのない人物だと知らせてくださいます。そしてそのおかげでちょっとはましな人物にならせていただこうと思うようにもなってきます。

親鸞聖人は「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」の中で「凡夫(ぼんぶ)というのは、無明煩悩が身に詰まっていて、欲が多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみなど悪い心がひまなくはたらいています。それが臨終の死ぬ瞬間までなくならないのです。」と、仏の光に照らされて見ることのできた自分の汚い心について書かれています。

けれども、ただ心が汚いのをみて終わるのでなく、「阿弥陀さまが そういう愚かな者をあわれに思われて必ずお浄土に生れさせてくださるとの願いがありがたい、申し訳ない」と感謝や反省がうながされ、「じゃあ、ちょっとはましな人間になるようにしてみよう」と、できるだけ欲張らないように、怒らないように気をつけようとなってくるのです。

そういう気づきや感謝や反省がでてくるところに阿弥陀仏のはたらきを感じ取ることができます。

南無阿弥陀仏