蛇と本願

新年おめでとうございます。新しい年が皆さまにとって意義深い一年となるとよいですね。今年は巳年(ヘビ年)なので、ヘビのお話をしましょう。

古来より、蛇は宗教的な存在として尊ばれてきました。蛇は神秘的な生き物です。脱皮をする、足がなくても前に進む、毒を持つなどの特性があります。これらの独特な性質から、古代の人々は蛇を特別な存在と見なし、神聖な力や超自然的な性質を持つものとして崇めました。蛇は時に悪の象徴と見なされることもあります。たとえば、旧約聖書では、蛇がイブを誘惑して禁断の果実を食べさせた話が有名です。一方で、白蛇のように、神々の使いとして神聖視される文化もあります。世界中に蛇をテーマとした多くの神話や伝説が存在し、恐れと崇拝の両面を持つその二重性が反映されています。


蛇の図象でよく知られているのが、古代ギリシャの「ウロボロス」です。「ウロボロス」という言葉は「尾を飲み込む」という意味で、蛇の頭が自分の尾をかじっていて、自ら輪を作る蛇として描かれます。このイメージは深い意味を持ち、無限や存在の循環—誕生と死、始まりと終わりのつながり—などを表しています。


仏教には、私たちが相互に依存して存在することを教える、ヘビのお話があります。

あるところに、大きな木の上で休んでいた蛇がいて、この蛇の頭と尾が、自分たちのどちらがリーダであるかで争いを始めました。頭はこう言いました。「私がリーダーだ。私は目で見ることができるし、耳で聞き、口で食べることもできる。私がいなければ、私たちは生きられないだろう。」尾は反論しました。「いや、私がリーダーに決まってる。私が体全体を動かしているのだから。私がいなければ、一歩も動くことができないじゃないか。」

尾は自分の力を証明するために枝に巻きつき、蛇全体を動けなくしました。三日間、水も食べ物も取れなくなり、ついに頭は降参して言いました。「君の方が強いことを認める。私が間違っていた。これからは君に従うよ。」
尾は誇らしげに枝に巻き付いていた体を緩め、自分の思うように進もうとしましたが、蛇は木から落ちて岩に打ちつけられて死んでしまった、というお話です。

この物語は、私たちのつながり、そして相互に尊重することの大切さを教えてくれます。蛇の頭と尾は、自分たちが相互に依存していることを認識できず、それぞれの優位性にばかり目を向けていました。同じように、人生においても、パートナーや家族、友人、同僚との関係で、私たちを結びつけるつながりを見失い、対立が生じることがあります。

浄土真宗では、全ての存在が深いつながりを持っていることに気づくことがすすめられています。この視点は、阿弥陀仏の本願に根ざしています。本願は、「十方衆生」と呼ばれる、宇宙のすべての存在に対して、差別や排除なく平等に向けられています。本願を信じ、念仏をとなえる者は、お浄土に往生し、涅槃を得ることが約束されています。

阿弥陀仏の本願には、
「わたしが仏になるとき、 すべての人々が心から信じて、 わたしの国に生れたいと願い、 わずか十回でも念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開きません。、、、」と誓われています。

私たちはこの本願の精神を学ぶことで、全ての存在の深いつながりに気づいていくことになります。本願の心をいただく念仏者は、対立が起こったとき、阿弥陀仏の広大で公平な心を思い起こすことで、自分の自己中心性を反省し、他人とのつながりを考えるようになっています。それで、できるだけ争いがないように、と気をつけるようになるのです。

すべての対立を避けることは難しいことですが、今年も本願の精神を学び、平和と調和を育んでいきましょう