ダーナ、喜捨

古本竜太
 

7月のお盆のおどりでは、Jr.YBAは例年通りかき氷を販売しました。ですが、宗教的に言うと、Jrたちは、かき氷は売っていません。かき氷はダーナ(お布施)にし、無料でみんなに食べてもらう、というようにしました。けれども、かき氷を食べた人は、Jrにお布施をしてくれたのです。

お盆の前に、Jr.たちはかき氷の値段をどうするか話し合っていました。インフレのため、値段を上げるべきだ、という意見もありましたが、Jr.たちが行く仏教教育のための日本旅行を支援してくれた人々や踊りに来てくれた人々に感謝して、かき氷はをダーナとして皆に食べてもらおう、と決めたのでした。

無料とは言っても、一応、Jrは寄付金入れを設置し、「喜捨」という看板を掲げました。喜捨の「捨てる」とは、見返りを期待しないダーナの心を強調しています。理想的な仏教のダーナとは、ただ 「ギブ」することで、ギブ・アンド・テイクではありません。Jr.は人々への感謝として、かき氷を贈り、人々はかき氷のお礼としてJr.にお金のお布施をされたのです。お布施の値段は決まってないので、自分たちでお布施する金額を決めます。結果、Jr.たちは赤字にならず、むしろ多くの寄付が集まり、ダーナを楽しむことができたそうです。寄付をした人たちも、いくら捨てるかを決めるのを楽しんでおられました。

ダーナ(布施)とは、無私の与え合い、分かち合いを意味します。仏教は涅槃に至る方法を説いていて、涅槃に至るには、私たちが所有するものすべてを放棄し、最終的には「私」とか「私のもの 」という思考さえも捨て去るのです。それで「私」への執着をなくすための修行の一つとしてダーナを実践するよう勧められているのです。そしてまた、ダーナはすでに涅槃に至って仏となられたお釈迦さまや阿弥陀さまが実践されていることでもあります。

浄土真宗では、私たちは完璧なダーナをすることはできないので、阿弥陀さまが私たちにダーナをしてくださっていると考えます。私たちは他人のために財産をすべて手放すことはできません。ホームレスの人に家をあげようと思っても、おそらく家族は怒って私たちを家から追い出すでしょうし、私たちが無私の行為と思っても、家族からみると、自分のことしか考えてない自己中心な行為とみなされるでしょう。世俗的な生活をしている限り、ダーナを完全に実践することは難しいのです。ダーナができなければ、涅槃に達することはできません。ですから、阿弥陀さまはそのような者のために、私たちが浄土に生まれ、涅槃に至ることのできる功徳を回向してくださるのです。

私たち浄土真宗の伝統では、悟りを得るための修行として、ダーナをしません。阿弥陀さまの功徳を受けている者として、阿弥陀さまへの感謝の表現の一つとしてダーナを実践することが勧められています。

如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし

(恩徳讃)

親鸞聖人は、阿弥陀さまから大きな功徳をいただいている私たちは、感謝しても感謝しきれないと言われています。阿弥陀さまの私たちへのダーナは、私たちが浄土に生まれ、涅槃に到達できるようにすることです。そして、「南無阿弥陀仏」と称えることが阿弥陀仏へ感謝する行為だとしているほか、他の人々へダーナすることも報謝行として勧められています。日々の暮らしの中で念仏を称え、できるだけ喜捨をするようにしていきましょう。

南 無 阿 弥 陀 仏