良いことも悪いことも

古本竜太

 

私たちはたいていの場合、幸運、健康、富、勝利、そしてポジティブなことを好みます。不幸、不健康、貧乏、負ける、などネガティブなことは避けようとしたり、見ないようにしています。けれども、仏法では、幸運と不幸は切り離すことができず、不幸や悪い出来事を避けて生きることはできないと教えています。ですから、心安らかに生きるためには、良いことも悪いことも自分に起こるすべてのことを受け入れる心構えが必要です。浄土真宗の念仏者は、良いことも悪いこともニュートラルなことも、すべて受け入れ、何にでも感謝して生きていくようになります。

ここで、幸運と不幸は表裏一体であることを教えてくれる仏教の昔話を紹介しましょう。

昔、中国のある村に、いつも金持ちになりたいと思っている男がいました。ある日、彼の家に美しく着飾った女性が訪れました。男はその女性に誰なのか尋ねると、女性は「私は富と幸運をもたらす女神です」と答えました。男は富の女神が自分の家に来たことをとても喜び、 幸福の神を暖かく迎え入れ、親切にもてなしました。

その後すぐに、もう一人の女性が男の家を訪れました。富の女神とは対照的に、彼女は魅力的でなく、服は擦り切れ、とても汚れています。男はその女性に誰なのか尋ねると、女性は「私は貧乏と不幸をもたらす女神です。」と答えました。男は不幸の神が自分の家に来たことを不服に思い、追い払おうとしました。

すると貧乏神は言いました。「なんと愚かなことを。幸福の女神は私の双子の姉で、私たちはいつも一緒に暮らしているのです。離ればなれになることはできません。私を追い出せば、姉も一緒に出て行くのです。」

男はその言葉に驚き、幸福の神に尋ねました。「あの不幸の神は本当にあなたの妹なのですか?「はい、そうです。私はいつも妹と一緒にいます。私たちは一度も離れたことがありません。どこに行っても、私はその家に利益を与え、妹はその家に損失を与えます。私が幸運を与えれば、妹は不運を与えます。もし、あなたが私を尊敬し、優しく接するなら、妹にもそうしてください。」そして、姉妹は姿を消した、というお話です。

この話は、幸運と不運は切り離せないということを伝えています。一枚の紙の片面だけを取ることはできないように、幸運だけを取ることはできないのです。生は死と隣り合わせですし、健康には病気がつきものです。不運には幸運が伴います。それらは常にワンセットなのです。私たちは幸運ばかりを追い求めがちですが、良い状況は長くは続かないことを知り、時には悪い状況や苦難に遭遇しなければならない、と思うほうが健全です。

親鸞聖人は、『教行信証』の中で、あるお経の一節を引用され、「正見を得て歳日月の吉凶を択ばず。」と、真宗の念仏者は、いい日、悪い日を決める占いにたよらない、と言われていますし、いくつかの和讃でも同様のことをおっしゃっておられます。それで、浄土真宗では加持祈祷はせず、お守りなども取り扱ってないのです。

正見とは、幸運は常に不幸と一緒であると見ることです。私たちは良いことだけを求めがちですが、良いことだけが起こり続けることは不可能です。もし私たちが良いことばかりを期待していると、何か悪いことが起こったときに、とても動揺し、混乱し、よりストレスを感じることになるのです。

親鸞聖人のお念仏の教えは、良いことも悪いことも受け入れなさいというものです。晴れの日もあれば、雨の日もある。場所によって、晴れの日が多かったり、雨の日が多かったりします。けれども、晴れの日が多すぎると干ばつが起こって水不足になりますし、雨の日が多すぎると少し憂鬱な気分になるかもしれません。寒い地域に住んでいる人は、寒いのは不便ですが、ウインタースポーツを楽しむことができます。温暖なロサンゼルスに住んでいる私たちは、暖かくて便利と感じてますが、住む人が多く、いつも交通渋滞に不満を持っています。ですから、「どこに住もうが、ここが一番いいところ。」と思って、感謝の気持ちでお念仏を称えながら生きるのが良いでしょう。そうすれば、不満も少なく、安心して暮らせるのではないでしょうか。

 

南無阿弥陀仏