蓮の花のように咲く

今年の夏、お寺の境内の中庭にとてもきれいな蓮の花が咲きました。マス先生が育てたものです。去年はラクーンがが蓮根を食べてしまったので、花が咲きませんでした。それで今年は鉢の場所を移しました。そうすると、蓮がラクーンに見つからず、立派な花が咲いたので、みんな喜んで写真を撮っていました。来年は、蓮の鉢を増やしますので、もっと多くの蓮の花が咲き、写真を撮る枚数も増えるでしょう。

 

蓮は「仏教の花」としてよく知られています。

もし「仏教の花は何ですか?」と聞かれたら、「蓮です」と答えましょう。(そんな質問をされることは、あまりないと思いますが。)蓮の花は、洗心のロゴでもあるので、意味を知っておくとよいと思います。

 

蓮の花は多くの仏教経典にも登場します。『阿弥陀経』には、極楽浄土の池にさまざまな色の蓮華が咲いていると説かれ、『法華経』は大切なお経として知られています。

また、仏教の生まれたインドでも、蓮は大切な花です。座禅の姿勢「結跏趺坐(けっかふざ)」のサンスクリット語は「パドマ・アーサナ」といい、「蓮華座」という意味です。インドやスリランカでは、蓮は国花にもなっています。

昔の人々は、現代人のようにスマホの画面をずっと見続けるのでなくて、自然をよく観察していました。その中で、蓮の成長を見つめながら、仏教の深い教えを感じ取ったのです。ここにいくつか仏教の教えと蓮の関連性をあげてみましょう。

 
  1. 蓮は泥の中から咲く。

    泥は私たちの煩悩を表します。無明(自分の愚かさに気づかない心)、怒り、貪りの心、そういった煩悩から起こる、さまざまな苦しみです。けれどもそうした「濁った世界」からこそ、美しい花が咲くのです。同じように、煩悩が涅槃に至るのに不可欠なものであるとし、私たちの失敗や困難も、心の成長のもとになる、ということです。

親鸞聖人もあるお経から、「蓮は高い山には咲かず、濁った池に咲く」という意味のことを引用され、煩悩をかかえたままでも、仏さまに導かれて、私たちは美しく咲くことができる、ということをお示しくださっています。

 
  1. 蓮の種はとても強い。

    蓮のタネは何千年も地中で眠っていても、再び芽を出す力があります。日本のある科学者が、二千年前の蓮の種を発芽させました。これは、私たちの「仏性(ぶっしょう)」、仏となる可能性を思い出させてくれます。長いあいだ気づかずにいても、念仏の教えを聞くとき、その仏性が目覚めるのです。

 
  1. 蓮の葉は自らを清める。

蓮の葉に落ちた水が表面を転がり、汚れを流していきます。この「ロータス効果」は、仏の力が私たちの業(カルマ)を清めることを象徴しています。私たちが間違いをしても、仏の慈悲が自然に包み、清めてくださるのです。

 

親鸞聖人は『正信偈』の中で、

「念仏を称え、その教えを聞く人は、迷いの世界である泥の中に咲く白蓮華(びゃくれんげ)である」と述べられています。

 

泥の中にあっても、美しく咲く蓮のように。毎日、念仏を称え、阿弥陀さまの智慧と慈悲をいただき、自己中心性を見つめて、反省と感謝の生活をしていきましょう。

 

でも、「蓮のようになろう」と頑張りすぎると、うまくいきません。民藝の職人が「芸術を作ろう」と思わずに、ただ日常の道具を丁寧に作ると、そこに自然な美しさが現れるように、私たちも「立派になろう」「いい人になろう」と思わなくていいです。生活の中でただ念仏をしていくと、自然と阿弥陀さまの美しいお徳が出てくるようになり、自分だけでなく他の人も気持ちよく生きていけるようになっています。

 

南無阿弥陀仏