「なにものでもない」生き方
浄土真宗では、あまり「なにものか(somebody)」になろうと勧めたり、思ったりしないようになっています。偉い人になってやろう、有名になってやろう、とせず、人から尊敬される立派な人であっても、それを誇りません。むしろ、謙虚に生きることを大切にします。念仏の教えを聞き、「自分が」という思いが薄れてくると、阿弥陀さまの智慧と慈悲が自分を通して、自然にあらわれてきて、それが素晴らしい生き方だと讃えられることがあります。
これは民藝にも似ています。民藝は名のある芸術家ではなく、無名(むめい)の人が日々の暮らしのために誠実につくったものです。特別に「芸術」を目指したのではなく、自然と出てくる美しさがあります。「なにものでもない人」が作ったものに、人々をひきつける、深い美しさがあるのです。
源信和尚(942–1017)は比叡山の僧侶で、親鸞聖人にも大きな影響を与えた方です。若くして才能を認められ、当時の天皇から立派な衣と高僧の位を授かりました。源信和尚が、それを喜んで母に贈ったところ、「あなたは人々を浄土に導く橋になると思っていたのに、まだこの世の名誉に執着しているのですね」という意味の歌を添えて、送り返したと言います。
源信和尚はこの言葉にハッとして、名誉を離れ、比叡山の横川に移って浄土教の修行に専念しました。そして『往生要集』を著し、法然上人や親鸞聖人に大きな影響を与えたのです。
また、西本願寺の唐門には、中国の賢者・許由の故事が刻まれています。皇帝から次の皇帝になれと勧められたとき、許由は「そんなことを聞いただけで耳が汚れた」と言って川で耳を洗いました。名誉や権力を求めなかったのです。この故事も「なにものでもない」ことの大切さを伝えています。
現代では、SNSで「インフルエンサーになりたい」と思う人が多いですが、無理に「なにものか」になろうとしても上手くいきません。ただ自分の好きなことを自然にシェアしていると、人は自然に集まってきます。実は、インフルエンサーになる秘訣は「インフルエンサーになろうとしないこと」なのです。
アメリカの文化では「Be somebody」とよく言われますが、浄土真宗では逆のことを教えます。「なにものでもない」からこそ、自分を通して、本当の「なにものか」が出てくる。念仏者は「なにものでもない」存在ですが、そのまま阿弥陀さまに生かされ、周りの人にとっては「妙好人」と映ることがあります。それが正信偈に
善人も悪人も、 どのような凡夫であっても、 阿弥陀仏の本願を信じれば、
仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、 汚れのない白い蓮の花のような人とおほめになる。
とある意味です。
私たちも「なにものでもない」心で、南無阿弥陀仏とともに日々を歩んでまいりましょう。
