また孔雀になりました。

数年前、本堂の欄間(らんま)について、法話を書いたことがありました。タイトルは「鸞(らん)になりました」です。お内陣の上に、三枚の欄間があり、それぞれに、二羽の孔雀と牡丹の花が彫られています。

この孔雀は、中国の神話に登場する「鸞(らん)」という霊鳥に似ていて、鸞は阿弥陀如来の慈悲を表し、親鸞聖人のお名前にも使われているので、孔雀でなくて、鸞だと解釈することにした、というお話でした。
でも、数年経ってから、見方が変わりました。今からは、この鳥はやはり「孔雀」に戻すことにしました。

その理由は、最近、サンガティーンのメンバーが、本堂の欄間にインスピレーションを受けて「孔雀と牡丹」というタイトルの美しい絵を描いてくれたことです。さらに、マス先生が、「この欄間は『孔雀と牡丹』だ」と言われてたので、これからは「孔雀」として見ることにし、このメッセージのタイトルも「また孔雀になりました」にしました。

この孔雀と牡丹という取り合わせには、仏教的な意味があります。
日本や中国の伝統美術において、孔雀と牡丹は高貴でめでたいことのシンボルとなっています。孔雀(くじゃく) は、美しさ、優雅さ、気高さの象徴で、牡丹(ぼたん) は「百花の王」とも呼ばれ、富や美を表します。そのため、かつては貴族の家にもこのデザインが多く使われました。そして仏教においては、この組み合わせには宗教的な意味が込められています。

孔雀は解毒する力を持ち、毒蛇や毒虫を食べても害されないそうです。それはまるで煩悩(ぼんのう)という毒を無毒化、または功徳に転ずる仏力の象徴としてとらえられます。

牡丹もまた、仏教では特別な意味を持ちます。牡丹は仏法や安心の象徴です。多くのお寺では、孔雀と牡丹よりも、獅子と牡丹がセットで描かれていて、浄土真宗では、仏法を聞くことの大切さを表しています。

このデザインは、あるお経に、百獣の王と言われる獅子の敵は他の動物ではなくて、獅子自身の中に住む小さな虫だ、と書かれているところに由来していて、これが「獅子身中の虫」ということわざにもなりました。
伝説では、この虫を抑える唯一のものが牡丹の露だとされ、獅子はその露を求めて牡丹の下で眠るといいます。

これは、私たちが、内にある煩悩に苦しめられているということを表現しているとも言えます。仏法を聞き、念仏を称えることがその「牡丹の露」となり、私たちを癒し、安らぎをもたらしてくれるのです。

親鸞聖人は、弟子に当てた手紙で、サンガのあり方について、獅子身中の虫のたとえを用いて述べられています。

仏法を滅ぼすことのできる人はいないのです。 仏法者自身が仏法を滅ぼすことをたとえて、 「獅子の体の中にいる虫が、 獅子をむしばむようなものである」 と説かれているのです。 このように、 念仏者の邪魔をしてさまたげるのは仏法者なのです。

と、正しい教えを知らぬ者が、サンガを内側から崩してしまう。だからこそ、私たちは法を聞き続け、念仏を称え、教えを皆と分かち合っていくことが大切なのです、とお示しくださっています。

本堂の欄間の、孔雀と牡丹は、煩悩を解毒し功徳に転じる仏法や阿弥陀さまの力を表現し、そしてそれは、私たちに「聞法」と「念仏」の尊さを教えてくれている、として仰ぎ見たらよいと思います。

南無阿弥陀仏