日曜日のお参り

9月からお寺のお参りが再開しました。8月は日曜日のお参りがなかったので、日曜日に一体何をしたらよいのかと、戸惑われた方もおられるでしょう。日曜日の朝に目覚めてお寺に行かないとなると、どこに行ったらよいのかわからずに時間をもてあましてしまったり、また、することがなくて一日中家でゴロゴロしていた、という方もおられるかもしれません。また逆に、お参りがないなら普段は行かないところに行ってみようと、海や山や遊園地などに出かけて楽しんだ方もおられることでしょう。

けれども9月からお参りが始まりましたので、喜んでおられる方が多いと思います。

日曜日にお参りされて、仏さまの教えを聞くことがうれしいと思えるのはたいへん素晴らしいことです。それは自分をお寺に行くようにしてくださった親、お寺を楽しいところだと思えるようにしてくださった、友達、家族、先生など、多くの方々の導きによってのことです。

その導きがなければ、日曜日にお寺に来ずにソファに座って一日中スポーツ中継を見て、ミスをしたプレイヤーの文句を言う、また、キャンプに行った帰りに渋滞に巻き込まれて愚痴を言う、というようなことになっていたかもしれません。

日曜日にお寺に来ると、文句や愚痴をいう口がお念仏が出てくる口に変わりますので、いいことです。また、お寺に来ればショッピングやレストランなどに子供や孫を連れて行かなくてよいので、お金がセーブできます。お寺はパーキングは無料だし、コーヒーはでてくるし、たまにまんじゅうも食べられます。さらにいろいろな人とおしゃべりもできて、ご利益が多いです。ですから、皆さん日曜日はできるだけお寺にお参りしましょう。

日曜日のお参りは10時から始まりますので、若い方やお寺から離れたところに住んでおられる方にはちょっと朝がはやいかもしれませんが、そういう時は善導大師の言葉を思い出してください。

親鸞聖人が尊敬された七高僧の一人、中国の善導大師(613年から683年)は往生礼讃(おうじょうらいさん)に

「苦を度する船いまだ発たず、いかんが睡眠を楽まん。」と書かれています。

仏教では私たちの住む世界を穢土(えど)といいます。煩悩でけがれているという意味です。その反対に浄土は、煩悩でけがされてない、という意味で、すべての苦や不自由さから開放された仏の世界です。善導大師は、苦の多い穢土から浄土へ渡してくださる船を阿弥陀仏、または阿弥陀仏の願力、お念仏、信心などにたとえられます。「穢土から浄土へ渡る船にまだ乗ってないのではないか?それなのに、なぜ朝寝をしてお寺にいかないのだ!」と善導大師が私たちに言ってくださっているようなお言葉です。

と言われても、「仕事や学校で苦を味わったのだから、日曜日は昼まで寝るほうが楽でいいよ。」と思うかもしれませんが、浄土教のいう苦楽とは、私たちのいうレベルのものではなく、自分というとらわれや煩悩から自由になって苦楽のちがいにまどわされないことを楽といい、自己や煩悩にしばられ苦楽を感じている状態はすべてが苦だといっているのです。

そういう考え方はちょっと難しいので普段は考えることがありません。けれども浄土真宗の教えを聞くと、いつとはなしにそういった高いレベルの苦楽ということについて思いをはせるようになってきます。そういった高いレベルの世界のお話はたいへん面白く、喜びがでてきますし、それを朝、頭が冴えている時に聞くのがいいのです。

そうなると、「朝寝するよりはお寺に来たほうがいいな」となってきます。10月もお寺にお参りしましょう。

 

南無阿弥陀仏