お彼岸、そのままおまかせする
秋のお彼岸の季節がやってきました。今年は9月22日が昼と夜の長さがちょうど同じになるそうです。洗心寺では16日(日)に法要をお勤めしますので、みなさまぜひお参りください。
お彼岸は暑くもなく、寒くもないちょうどよい気候で、仏教の教えを聞くのにもっともよい時だと言われています。でもそれは日本でのことで、私たちのいるロサンゼルスではたいがいの時期がちょうどよい気候なのでいつも仏教の教えを聞くのに適していると言えますね。
お彼岸の語ですが、「彼の岸」とは「此岸(こちらの岸)」と対比された言葉で、彼岸を仏さまのおられる悟りの世界、こちらの岸を私たちの住む迷いの世界にたとえています。
仏教とは仏に成る教えで、こちらの岸から彼岸へとわたっていく方法を示してくださっています。その方法にいろいろありますが、私たちの浄土真宗の方法は、阿弥陀如来におまかせするというものです。 私たちが自分の力では彼岸へとわたることができないため、慈悲深い阿弥陀さまが私たちを彼岸へとわたしてくださるのです。
親鸞聖人は高僧和讃に、
生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
と、阿弥陀さまの願いを船にたとえ、その船に乗って彼岸に渡してくださるのだ、と仏さまのはたらきのイメージがわくように、わかりやすく説いてくださっています。
私たちはその船にそのままで乗っていればよく、自分が船をこいでやろうという思いは不要です。それは、仏になるために、なにかいい事をするべきだとか、 人を救わないといけない、というような思いです。
そういう思いを自力の心と呼び、阿弥陀さまの大きな力におまかせする邪魔になりやすいです。けれども、「何かいい事しないといけない」、というのもそのままの心で、そういった心をなかなか捨てきれない者が阿弥陀さまの救いの目当てなのだ、と気づくことがおまかせする、ということです。
親鸞聖人はかつて祈祷をするためにお経を読んだことがあるようです。それは聖人が42才の折、越後から関東へ向かっていたときのことなのですが、村人が、農作物が実るために雨を降らせたり、または天災が来ないように、などのことを祈ってください、と聖人に頼んだのでしょう。聖人も、人助けをしようとのことでお経を読み始めたのだと思います。
けれども、祈祷は、人生に起こるよいことも悪い事も受けとめて生きていく念仏の教えとは合わない考えなので、結局途中でお経を読むのをやめてしまったそうです。
その後、親鸞聖人が60才くらいになって夢にそのことがでてきたと奥さんの恵信尼さまが手紙に書いておられます。それで夢からさめた聖人が言われたのが「ああやっぱりそうだったか。」でした。このことが何を意味するかはいろいろ解釈がありますが、ひとつには、自力の心の自覚です。いくら阿弥陀さまの船にのせられてそのままの救いだと言われても、「自分が人を救ってやろう」というような自力の心は、なかなか捨てがたいのです。でも、そういう考えを持つ者をこそ救うというのが阿弥陀さまの他力の船なので、その心があるままでよかったのだ、との気づきから「そうだったか」と言われた、とのことです。
南無阿弥陀仏