「私もそうなるかもしれない」
八月中旬に、BCA開教使の研修会「布研」に参加するため、デンバーを訪れました。デンバー仏教会はクアーズ・フィールドから歩いて五分ほどの場所にあります。ちょうどドジャースの試合が行われていたので、何人かの先生方と観戦に行きました。その試合で大谷翔平選手が今季三十号のホームランを打ち、大谷選手のファンである私たちは大いに喜びました。
大谷選手といえば、先日、大谷選手を装ったロマンス詐欺の記事を読みました。
日本に住む大谷選手のファンの五十代の女性が、ある日、大谷選手を名乗る人物から、ファイスブックで「こんにちは、大谷翔平です」というメッセージを受け取りました。大ファンだった女性は大変喜びました。しばらくやり取りを続けた後、偽の大谷選手は、「デンバーで打った三十号ホームランは、あなたのために打ちました」と伝えました。女性はすっかり感激しました。
その後、相手は「携帯電話のプランを変える必要があるので、五十ドル送ってください」と要求しました。現金ではなく、アップルのギフトカードを購入し、カードの写真を送るよう指示したのです。女性は本当に大谷選手からのメッセージだと信じ、カードの写真を送りました。幸い、家族が詐欺に気づいたため、それ以上のお金を送らずに済みました。
この話を聞くと、私たちは「どうしてそんな話を信じたのだろう」と思うかもしれません。「何百万ドルも稼いでいる大谷選手が、ファンに五十ドルを頼むはずがない。」「自分なら絶対に騙されない」と考える人もいるでしょう。
しかし、「自分は絶対に大丈夫」と思っている人も、詐欺の被害者になる可能性があり、また、優しい人ほど、その優しさにつけ込まれることがあるとよく言われます。
詐欺師が利用するのは、人間の欲だけではありません。家族を愛する心、人に迷惑をかけたくない気持ち、権威ある人への信頼、不安や恐怖から早く逃れたい気持ちも利用します。
「あなたの孫が逮捕されました。すぐにお金が必要です」「迷惑がかかるので、家族や会社には言わないでください」「今日中に払わなければ電気が止まります」などと言い、冷静に考える時間や、誰かに相談する機会を奪うのです。
家族への愛情、他人への遠慮、人を信頼する心、不安や恐怖は、どれも自然な人間の感情です。ですから、被害者に「どうして騙されたのですか」と簡単に言うことはできません。状況が整えば、誰でも被害者になる可能性があります。
『歎異抄』第十三条には、親鸞聖人と弟子の唯円との会話が記されています。
親鸞聖人が「私の言うことに従いますか」と尋ねると、唯円は「はい」と答えました。そこで親鸞聖人は、「それでは、千人の人を殺しなさい。そうすれば、浄土への往生は間違いありません」と言われました。けれども唯円は、「私には一人さえ殺すことはできません」と答えます。
すると親鸞聖人は、唯円が人を殺さないのは、心が特別に善いからではなく、人を殺す業縁がないからだと説明されました。人を傷つけたくないと思っていても、縁が整えば、思いもよらない行動をすることがあるのです。反対に、したいと思っていても、縁がなければできないこともあります。私たちは、「人を殺すことなど絶対にない」と思っています。しかし、戦争へ送られれば、人を殺さなければならない状況に置かれるかもしれません。
「異なる状況に置かれれば、自分が何をするかは分からない」という教えは、詐欺について考えるときにも大切です。家族への愛情、恐怖、孤独、焦りなどによって、私たちの判断は曇ります。そして、普段なら信じないことを信じてしまうことがあります。
ですから、人間を「騙される人」と「絶対に騙されない人」に分けることはできません。「私もそうなるかもしれない」と受け止めることが大切です。
それが、自分自身を凡夫と知ることです。凡夫とは、自己中心的な煩悩を抱えて生きる普通の人間です。私たちの考えや判断は、感情や置かれた状況に大きく左右されます。親鸞聖人は、「凡夫とは他の誰かではなく、私たち自身のことである」と教えられました。阿弥陀仏の本願は、そのような私たちのために建てられました。たとえ間違っても、騙されても、阿弥陀さまは私たちを見捨てません。恥ずかしさのために一人で苦しむ必要はありません。信頼できる人に相談し、助けを求めることができます。
浄土真宗では、すべての人に阿弥陀さまの本願の力が届いていると聞かせていただきます。だからこそ、他人を上から見下すのではなく、同じ立場にいる者として受け止めていくのです。
ここには、もう一つ難しい問題があります。阿弥陀さまの慈悲のはたらきは、被害者だけに向けられているのではありません。人を騙す者もまた、本願のはたらきを受けています。妙好人と言われるような念仏者には、「自分が同じ状況に置かれていたら、自分も人を騙していたかもしれない」と考える方もおられます。詐欺師でさえも責めたり、見下したりせず、「この人も、本当にお金に困っているのかもしれない。私も彼と同じ状況なら、人を騙すかもしれない。」と同情し、騙されていると分かっていても、お金を渡す人さえいます。もちろん、これは詐欺をしてもよいという意味ではありません。また、浄土真宗が詐欺をはたらく人に、お金を渡すように教えているわけでもありません。自らを凡夫と深く知ると、どのような人にも同情し、思いやりを持つ方もおられる、ということです。
私たちは詐欺を止め、被害者を守らなければなりません。加害者にも責任を取ってもらう必要があります。その一方で、被害者も加害者も、さまざまな業縁の中に生きる人間であることを忘れてはなりません。被害者は愛情や信頼、恐怖によって判断を失い、加害者は欲や恐怖、生活の困窮などに影響されているのかもしれません。そういう凡夫が本願の救いを受けているのです。
この理解は、加害行為を正当化するものではありません。しかし、「状況が違えば、それは私であったかもしれない」と気づくことで、他人を見下す心から離れさせていただきます。
お念仏「南無阿弥陀仏」は、ありのままの私たちに呼びかける、限りない智慧と慈悲の声です。同じ本願に抱かれている私たちの間に、上も下もありません。できるだけ他人を簡単に裁かず、互いに助け合って生きていきましょう。
南無阿弥陀仏
