凡夫の心
「凡夫」とは、普通の人、という意味ですが、仏教では悟ってない者のことをいいます。それは、自己中心的な心に絶えず動かされている私たちのことです。自己中心だと「自分さえよければいい」という考えになりがちで、結果、人にも自分にも苦しみをもたらすことになってしまうので、愚かな存在だと言われます。
ところで、先日、路上に駐車していた私の車が、別の車にぶつけられて、車が全損してしまいました。私は車内にいなかったため、けがはありませんでしたが、この事故を通して、自分が「凡夫」だということをあらためて知らされました。そして、洗心で七十年以上にわたって語り継がれてきた、桑月先生のお話を思い起こしました。
皆さんの中には、桑月先生ご本人から、マス先生から、あるいは洗心の古くからのメンバーから、この話を聞いたことがあると思います。
桑月先生は、洗心の初代開教使で、一九五一年から一九五八年まで洗心に駐在されました。
当時、桑月先生には、小学生の息子さんがおられました。ある日、息子さんが友達と外で遊んでくると言いました。桑月先生が「いってらっしゃい」と声をかけると、息子さんは家を出ていきました。しばらくすると、桑月先生は車が衝突する音を耳にしました。そして、誰かが「あっ、男の子が車にはねられた!」と叫ぶ声が聞こえました。先生はすぐに、「息子かもしれない」と思いました。家を飛び出して事故現場へ駆けつけると、車にはねられた男の子は、先生の息子さんではありませんでした。
そのとき、先生の心に最初に浮かんだのは、「ああ、よかった。安心した」という思いでした。しかし、その直後、桑月先生は、そのように反応した自分を恥ずかしく思いました。「けがをしたのが自分の息子でなければ、本当によかったのだろうか」と。
悟りを目指す者ならば、他人の苦しみは自分の苦しみとして、慈悲の心をおこすべきです。けれども、先生の最初の気持ちは、自分の子どもではなかったというだけで、「よかった」だったのです。そのとき、桑月先生は、ご自身の自己中心的な心に気づかされました。「自分の家族が無事であれば、私は他の人の苦しみを簡単に忘れてしまう。」先生は、どうしても取り除くことのできない、自分の内にある凡夫の心に気づかれたのです。
私はこの話を何度も聞いてきましたが、今回の事故を通して、これは桑月先生だけの話ではなく、これは、私自身の話でもあったとあらためて気づかされました。
その日の朝、私はお寺の仏前にお供えする花を買うため、フラワーマーケットへ行きました。路上に駐車スペースを見つけ、車を停めてマーケットに入りました。十五分ほどして戻ってくると、車の前部がひどく壊れていることに気づきました。ヘッドライトのカバーは割れ、その破片が道路に散らばっていました。少し離れたところには、木に衝突した SUV があり、その近くにあったもう一台の車も損傷していました。現場にいた人によると、その SUV が私の駐車していた車ともう一台の車にぶつかり、その後、木に衝突したとのことでした。
運転手は高齢者の方で、縁石に座っており、間もなく救急隊員が到着して介抱にあたりました。後に、私は事故処理に必要な情報を交換し、保険会社に連絡し、警察とレッカー車の到着を待ちました。結局、私はその場所に三時間ほどいることになりました。
しかし、その三時間のあいだ、私の心には浮かんでいたことは、「自分、自分、自分」ということです。
車の損傷を初めて見たとき、私は「これは面倒だ。大変なことになった」と思いました。「保険会社に電話しなければならない。時間がかかりそうだ。お寺に戻ることができないし、花がしおれ始めるかもしれない。花が新鮮でなくなったら、明日またマーケットに来て買い直さなければならない。返信しなければならないメールもたくさんあるし、日曜日の法話も準備しなければならない、、、」さらに、私はこのようにも考えていました。「車をぶつけた人の運転免許証や保険の情報を受け取れるだろうか?もし受け取れなかったら、私の車はどうなるのだろうか?」もちろん、私は運転手のことも心配していました。それでも、私の中心の思いは「自分の」車、予定、都合、でした。
そのとき、私は桑月先生の話を思い出しました。先生の最初の思い、「自分の息子でなくてよかった」と同様、私の最初の思いは、「自分の車はどうなるのだろう」でした。
この事故を通して、私は自分の内にある自己中心的な心の強さを知らされました。そして、あらためて「私は凡夫だ」と気づかされたのです。
凡夫とは、私たちのような、ごく普通の愚かな存在です。その思いは、いつも「私の家族」「私の持ち物」「私の都合」と自分ファーストです。この自己中心性は、自分の努力によって完全に取り除くことのできるものではありません。親切で、忍耐強く、思いやりのある人になろうとしても、身勝手な思いや怒り、苛立ち、不安が次々と湧き起こってきます。
浄土真宗とは、まさにそのような私たちのための教えです。阿弥陀さまの本願は、自分のエゴを取り除くことができた人に与えられるご褒美ではありません。自己中心的な思いから離れることのできない私たちに、無条件に向けられています。
;親鸞聖人は『一念多念文意』に、次のように記されています。
「凡夫は、すなわちわれらなり」
と、他の人でなくて、自分が凡夫だと知りなさい、と言われます。そして、
「阿弥陀さまは、信心の人が正定聚の位に定まり、必ず涅槃に至ると誓われています」
と、この凡夫である私こそが、阿弥陀さまの救いのはたらきに摂め取られているとお示しくださっています。
完全な涅槃は浄土に生まれたときに実現しますが、阿弥陀さまのはたらきによって、すでにこの人生において、涅槃へ至る道を歩ませていただいています。注意しないといけないのは、そのはたらきによって、私たちがエゴのない人間になるわけではない、ということです。むしろ、自分のエゴが照らし出され、自分自身の姿をより正直に見ることができるようになります。そして、私たちの人生に安らぎと歩むべき方向を与え、他の人のことも考えるように、促してくださいます。
;自分の身勝手さに気づかされたとき、私たちは「南無阿弥陀仏」と称えます。これは、「私はエゴを克服しました」という意味ではありません。「私の本当の姿を知らせてくださり、ありがとうございます。私の関心が、いとも簡単に自分自身へ戻ってしまうことを申し訳なく思います」というような感謝と反省の応答です。
自分が凡夫であることを受け入れるとは、自分を恥じたり、他の人より劣っていると感じたりするためではありません。謙虚に生き、お互いを尊重するようになるのです。この自覚が私たちの心に安らぎをもたらし、他の人々と調和して生きることを助けてくれます。
今回の事故は、自分の内にある凡夫の心を、あらためて知らされることとなり、ありがたいご縁となりました。
南無阿弥陀仏
