足るを知る
最近、机の引き出しを掃除していたとき、「I Love Bhutan」と書かれたステッカーを見つけました。それは、マス先生がブータンに行った時に買われたステッカーでした。
ブータンは、国民総幸福量、Gross National Happiness という考え方を大切にしてきた国として知られています。経済的な豊かさだけではなく、人々がどれほど幸せを感じて生きているかを大切にする考え方です。ブータンは経済的には豊かではないですが、国民の多くが「自分は幸せだ」と思っている、ということで有名になりました。そのことから、私たちの人生に本当の幸せをもたらすものは何なのかを、改めて考えました。
私たちの社会では、「多ければ多いほどよい」という考え方をよく耳にします。より多くの成功、より多くのお金、より多くの持ち物、より多くの選択肢。そのようなものがあれば、私たちはもっと幸せになれると思いがちです。もちろん、十分な食べ物があり、安全に暮らせる場所があり、学びや仕事の機会があることは、とても大切なことです。しかし一方で、たくさんのものを持っているように見える人であっても、心の中では満たされない思いを抱えていることがあります。
ある調査によると、ブータンの若者は以前ほど、幸せを感じていないそうです。インターネットやソーシャルメディアが広がるにつれて、人々は世界中の人々の暮らしを見るようになりました。そして、自分の暮らしと他人の暮らしを比べる中で、かつては満足していた人々も、次第に「自分には何かが足りない」と感じるようになっていったと言われます。
これは、私たちにもよくわかることではないでしょうか。ソーシャルメディアを見ていると、誰かが旅行に行っていたり、素晴らしい食事をしていたり、楽しそうな生活を送っていたりします。そのような姿を見るうちに、自分の生活が急に色あせて見えることがあります。実際には何も失っていないのに、比べることによって、心の平安を失ってしまうのです。
ここで、ブータンの民話である「メメ・ヘイレイ・ヘイレイ」というお話を紹介しましょう。「メメ」は「おじいさん」を意味し、「ヘイレイ・ヘイレイ」は、のんびりとした、気楽な人柄を表しているようです。この物語には、貧しいけれども満ち足りて暮らしていた一人の老人が登場します。ある日、その老人は畑を掘っているときに、大きく美しいトルコ石を見つけます。それはとても価値のあるものでした。
老人はその石をかごに入れて、家へ帰る道を歩き始めます。すると途中で馬を連れた人に出会いました。老人はその人に、「この石と馬を交換しませんか」と言います。大きなトルコ石の方がずっと価値があるのですが、老人は喜んで馬と交換しました。そして相手も、老人も、どちらも得をしたように感じました。
その後、老人は馬を牛と交換し、牛を羊と交換し、羊を山羊と交換し、山羊を鶏と交換していきます。物質的な価値から見れば、交換するたびに損をしているように見えます。しかし老人は、そのたびに幸せを感じていきました。
家の近くまで来たとき、老人は美しい歌声を耳にします。その歌を聞いているうちに、老人はとても幸せな気持ちになりました。そして、「この歌を聞いているだけでこんなに幸せなのだから、自分で歌えるようになったら、どれほど幸せだろう」と思います。そこで老人は、最後に持っていた鶏を差し出して、その歌を教えてもらいました。そして歌を口ずさみながら家に帰り、自分は最高の交換をしたのだと喜んだのです。
この物語を聞くと、私たちは「それはおかしい」「損をしているではないか」と思うかもしれません。経済的な価値から見れば、その通りです。しかし、この物語が語っているのは、お金や物の価値ではありません。この物語は、幸せとは何かを私たちに問いかけているのです。
幸せは、必ずしもどれだけ多くのものを持っているかによって決まるものではありません。仏教では、足るを知ることが説かれています。『大無量寿経』には、「少欲知足」という言葉があります。「欲少なくして足るを知る」という意味です。限りなく多くを求め続けるのではなく、すでにいただいているもの、すでに支えられていることに気づいていくということです。
『大無量寿経』では、この精神は法蔵菩薩の修行の一つとして示されています。もちろん、浄土真宗において、私たちはこのような実践を自分の力で完全に成し遂げられる者ではありません。むしろ、どれほど足るを知ろうとしても、私たちの中には、もっと欲しい、もっと認められたい、もっと自分の思い通りにしたいという心が起こってきます。
だからこそ、少欲知足の教えにふれるとき、私たちは自分自身の姿に気づかされます。足るを知ることの大切さを聞きながらも、なかなか足るを知ることのできない私がいる。感謝して生きたいと思いながらも、すぐに不満や比較の心にとらわれてしまう私がいる。そのような自分の貪りや、取り除くことのできない自己中心性に気づかされていくのです。
私たちは、ブータンの物語の老人のように、持っているものをすべて手放す必要はありません。しかし、自分は本当に「十分であること」を味わっているだろうか、と振り返ることはできます。大切な問いは、「私はどれだけ持っているか」だけではありません。むしろ、「私は満たされていることを知っているだろうか」ということです。
「多ければ多いほどよい」という考え方が、時には役に立つこともあるでしょう。しかし、足るを知る心がなければ、どれほど多くを得ても、それは決して十分には感じられません。足るを知ることを思い出すとき、私たちは同時に、自分がすでに多くのものに支えられていることに気づきます。その支えに気づかされ、感謝の心とともに生きていくことが、南無阿弥陀仏の精神をいただく念仏者の生き方です。
